父親永眠
3月5日午前7時59分、父が息をひき取った。90歳だった。これを書いているのはそれから4日後。書くか迷ったけど記憶が風化してしまう前にある程度今感じていることを書き残しておきたい。
昨年夏くらいから父の体力が急速に衰えていくのがわかった。なので少しずつ備えと覚悟は進めていたつもりだったのだが…。
昨年12月26日、父は苦しみ自分でベッドから出れないほどの状態になってしまった。救急車を呼ぶか悩んだが、それだと見知らぬ病院に運び込まれてしまう可能性がある為、父の状態がある程度安定してきたのを見計らい、翌朝27日に近くのかかりつけの病院に父を運び込んだ。そうしたら即緊急入院でHCUに入れられた。年明け1月2日担当医から「もう退院は出来ないと思います」と告げられた。我は会社を休み可能な限り父のそばにいることにした。ところが1月9日からインフルエンザ感染防止の名目で面会全面禁止とされてしまった。それから携帯電話だけが我ら親子を繋ぐ命綱のようになった。面会禁止ではどうする事も出来ず悩んだが、家に閉じ籠もっていてもしょうがないので翌週から会社への出勤を再開した。危険な状態になれば病院も連絡があるだろうし流石に面会を解除してくれるだろうと信じて。
翌週担当医から良い意味で信じられない連絡があった。父の体調が回復傾向にありリハビリを続け帰宅を目指しましょうと言われ父は一般病棟に移された。入院時の父の状態を良く知っているだけに到底信じらられなかったが医者が言っているのだから信じるしかない。そして家族としては良い報告の方を信じようとしてしまうものだ。1月30日に面会全面禁止は解かれたが厳しい制限は継続され、何と平日午後の短時間だけ、土日は全面禁止継続だった。なので我ら親子の面会は週1回、相変わらず電話での定期連絡が主な確認手段となった。これが後々までとても辛かった。
2月初めの頃は父が回復するものだと信じていた。実際ナースステーションに着替え等を渡した際、補助台車みたいなもので歩行訓練をしている父の姿をみて嬉しくなったものだ。しかし数日後に症状が悪化してしまい、また頑張って持ち直してきたらまた悪化するという事が亡くなる直前まで続いた。期待させられた分、父から伝えられる悪い知らせがある度に張り裂けそうな気持ちと無力感に苛まれた。父自身も「もういい加減にして欲しいよ」と心の叫びを言っていた。それでも父は「運を天に任せるしかない」と言い「俺はもう90歳で悔いはないんだから、お前そんなに感情的になるなよ、少しはリラックスしろよ」と言ってくれた。自宅で寛いでいる我の写真を送るようにも言われた。自分は正に命の間際だというのに、父は最後まで我のことを心配してくれた。
その後も父の声から体調は下降気味なのがわかった。そして父が息を引きとる4日前、父はもうゴボゴボという声にならない声での電話があった。たまらず病院に電話をかけて父の様子を見てもらうよう懇願した。そして担当医から「やはり退院は難しいと思います」と2ヶ月前と同じ事を再び言われた。居ても立っても居られないので面会禁止の日曜だったが病院に行って短時間でもと父へ会いに行った。その時父はもう会話が困難な状態だったが意識はしっかりしていて無理に会いに来た我の事を叱るくらいだった。
翌日も病院に行って担当医から直接状況説明を受け特別に面会制限を解いてもらえるようお願いをした。でもそれは結果的に父が亡くなる前日だった。そしてかなり聞き取るのが困難だったが息絶え絶えの父と最後の会話をすることも出来た。夕方になり我は一旦家に帰っていたのだが夜9時半に病院から電話があり危険な状態だと知らされ雪が降る中タクシーを捕まえ病院へ駆け込んだ。父の意識は既に朦朧としていながら目で若干の反応を示してくれたが、日付が変わった頃にはもう反応もしてくれなくなってしまった。翌朝父が息を引き取る瞬間まで手を握ってそばにいる事が出来た。母が死別する時それが十分に出来なくてとても後悔していたのでそれを繰り返す事がなくて良かったと思ったよ。昨年末の入院から69日間、父はたった1人病室の天井を見つめ繰り返される苦痛の日々からようやく開放された。息を引きとる20時間前に我との最後の会話の中で父は言った、「もう開放してくれ」と。だから父の心拍が停止した事を知らせる警報音を聞いた時、父を失った悲しみの感情より「父はよく頑張ってくれた」という労いと尊敬の気持ちが勝っていた。父、本当に頑張った。凄い!
家の事など何でも自分でやろうとして実際やってしまう、器用でしっかりした尊敬出来る父親だった。社交的で人と会話するのが好きで酒も適度に楽しんでいた。その辺りが我とは正反対なので根本的なところで理解し合うのは難しいと思っていた。でも実は現役時代、会社ではかなり辛い目にあって苦しみ我慢をしていた時期があった事をこの入院中の会話で初めて話してくれた。我と母の事を思い懸命に堪えてくれていたのだと思うと胸が締め付けられる思いだ。別れる前に親と子の理解と感謝を深める事が出来たと思う。それは天に感謝したい。
父の心拍停止から約20分以上放置され、ようやくやって来たのは担当医ではなく別の科の医者が父の死亡確認をした。これは酷いと思った。その後予め連絡を取っていた葬儀会社に霊柩車を手配し死後2時間後くらいに父はようやく病院から出る事が出来た。
あれから4日経過したが、不思議と父を亡くした悲しみの感情がほとんど浮き上がってこない。これじゃいけない!とは思うのだが、父や病院から電話がかかってくる事はもう無いんだ…という安堵の気持ちが、今はとても大きい。正に緊張の糸が切れた状態。この70日間に及ぶ予断を許さない緊張の日々は、父自身が感じていたであろう恐怖とは比べ物にならないけれど、自分の精神を限界近くまで追い詰めていたんだなと、今更ながら気がついた。
P.S. この記事を書くか迷ったけれど、実際書き終わってみると、自分の事が客観視出来て頭が整理されたというか、少し気持ちが落ち着いてきた気がする。これは日常的にブログを書いてきた者だけに与えられる効果なのだと思う。自ら続けてきたこのブログに感謝だ。
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