歳重理解
毎年末、過去を振り返っている記事を書いていたが、今回は今年に限らず、今自分が気が付いた事、感じるようになった事を書いておこう。長い呟きだ。
年々歳を重ねる毎に不思議と徐々に生きる事が以前ほど苦では無くなってきた。いや、当然未だに苦しい事や辛い事は日々はあるにはあるのだが、そのダメージを受ける程度の問題だ。大したものではないが我もそれなりに人生経験を積んできたので、苦しみへの耐性が出来たからかな?とは思っていた。でもよく考えてみれば歳を重ねていけば、自ずと「自分の将来」そのものの時間が目減りしていくので、「自分の将来への期待値」への変な「力み」のようなものも軽減されていくのは当然だし、それと同時に「将来への期待値」の裏に潜んでいた、その3倍から4倍もある「将来への不安」というのも目減りしてくれたからだと思う。簡単に言えば肩の力が抜けてきたというべきか。諦め等というネガティブな感情ではなく、ポジティブに捉えられているのが自分でも不思議なのだが。
我が尊敬している、約7年前にあの世の冒険へ旅立たれた漫画家、水木しげる御大のお別れ会に出席した時にいただいた最後のメッセージ「好きなことをやりなさい」の本当の意味が今になってようやく判ったような気がした。自分の人生の時間なのだから、出来るだけ自分の好きなことの為に使おう。自分の人生の時間は他人の為の時間ではない。もちろん好きなことをする上で我慢しなきゃならない事はあるので、台風が通り過ぎるのを待つように耐える時間もあるよ。でもそれはあくまで好きに生きる為の手段であって、耐える事が目的じゃない。そこを勘違いさせて上からものを言ってくる輩が世の中にはとても多い。特にこのパンデミック禍の期間にそれが可視化された気がする。
このパンデミック禍の自粛期間中に自粛警察、マスク警察等と呼ばれれる者たちが出現した。彼らは正義感に突き動かされて、と自己正当化するのだろうが、実は「不安」に突き動かされた結果である事は明白だ。反対に「マスク拒否おじさん」達も「不安」が「怒り」に変換され、それに突き動かされて「同調圧力だ!」と叫んで無駄に自分の人生の時間を費やしている意味で先の彼らと同じだ。同調圧力反対を叫んで集団を作ったらそれが同調圧力なんだよ…。多発するSNS炎上もそう。つい怒りを触発され、怒りのままに反応・行動してしまい、貴重な人生の時間を文字通り燃焼して灰にしてく。いやイライラした時間に変換されていく。そういう輩に関わる時間があったら、読みかけの本を少しでも読めたり、録画して放置していた番組とか見る時間に当てられただろうに…。
自分の身の回りでも精神を病み身体を壊してしまう人達が現れてきた。そういう人は所謂「良い人」である場合が多く、色々な面倒事を頼まれ断れず一人で抱えて精神と身体を壊して職場を去っていく事もある。要はいいように使われるだけ使われて壊れたら捨てられたのだ。彼は自分の人生の貴重な時間を使って何の為に頑張ったのか?会社の為?家族の為?本当にそうだろうか?我は彼と同じようになりたくない、自分の人生をそのようにしたくなはないと強く思った。
原因は「社会」というものが、人の手に余る自我を持つ怪物と化しているからだ、と空想してみると見え易くなった。人を使役し使い捨てにして養分にして大きくなっていく。その手段は巧妙に「不安」を煽り、「怒り」を刺激して「その場の空気」を形成し反論しにくい状態に追い込んで人を使役しにかかる。こんな世の中、精神を正常に保つ方が圧倒的に困難だと考える。ひきこもりが爆発的に増加しているというのも無理はない。ギリギリの自衛手段だ。
こんな小難しい事を何故ダラダラと書いたかというと、昨日関内辺りを歩いていたら道端に「人となれ 奉仕せよ」と書かれた石碑を見たからだ。いや、あんたが他人に奉仕する事、他人の笑顔を見るのが喜びで人生の目的だと思っているなら好きなように生きればいい。でもそれはあんたの心の中に留めておくべきで、偉そうに命令口調で他人に強要するな!ましてや石碑に刻むとか正気の沙汰でない。怒りを通り越して呆れたよ。我はもう容易く他人の為には動かない事にした。
我はまだ余生と言うのは流石に早過ぎる年齢なのでもう少し我慢の時間も必要なのはわかっているつもり。でも歳を重ねる度に、金より時間の方がどんどん貴重になっていっているのを実感している。水木御大の言葉を心の真ん中にしっかり持って意識して、他人に左右される事なく、自分のために人生の時間を使おうと強く思った。
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