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2016年3月15日 (火)

母親死別

今月7日、母親が亡くなった。様態が急変し医者に呼ばれあと数日の命だと宣告されたのが死去するわずか3日前。死因は肝臓がんからくる肝硬変。肺に水が溜まり呼吸困難で脳に酸素が行かなくなりもう意識が朦朧として金曜日は目を閉じたまま声にならない声で唸っているだけの状態だった。見ているのさえ辛かった。心が張り裂けそうだった。ところが翌日からの土日2日間は、おかしい言動はあるもののの、我をはっきり認識して会話もたどたどしくても交せ、自分の手で果物やお茶を食べるほどだった。我の頭を撫でてくれさえもした。思い返せばこの2日間は神様が我が家族に与えてくれた奇跡の時間だった。それでちょっと希望の光を見出し回復するのではと淡く期待をしていた。しかし翌月曜日、体調が急変し肩で息をする状態になってしまったという。職場から駆けつけ半日間手を握り体を擦っていたがその日の夕方、よくドラマで見るように脈拍は落ちていき機械は警告音をけたたましく鳴り響かせた。母の瞳から命の火が消えていくその瞬間を見てしまった。目やにだらけの目で最後まで我を見つめていてくれたような気がする。その時の表情が脳裏に焼き付いて離れない。後から看護師達が心臓マッサージをしてくれたが息を吹き返す事はなかった。後から思えば最後の瞬間まで看取る事が出来て幸せだったのかも知れないけど、その時はあんまりだ!残酷過ぎだ!と思った。怒涛のように押し寄せる悲しみと後悔。親と死別する時、そういう風になるというのは以前から聞いていた気がする。でもその本当の意味を知るのはその時にならないとわからないものなのか。いくら悔やんでも謝っても、母とはもう二度と話す事も叶わなくなってしまった。

数年前から入退院を繰り返していた母。自分の体だから自分が良くわかっていたはず。退院していても定期診断の名目で病院に通っていた。でもそれは治癒する為ではなく、自分の体が病に蝕まれていくのを数値で具体的に知らされるだけだったはず。どんなに辛く恐ろしかっただろう。時間をかけて真綿で首を締められていくようなものだ。母の最後はとても苦しそうだった。もしあの時息を吹き返したとしても、家族からすれば幸せでも、本人にすれば苦悶の時間が長引いただけだったはずだ。もう母は苦しまなくていい。不安から開放された。都合の良い考え方なんだろうけど、「これで良かったんだ」と思うしかない。深い悲しみに我が打ちのめされたとしても、母が不安と苦しみから開放される事が優先されるべきだ。

あれから一週間。今、母は骨となり壺の形で家に帰ってきている。大分気を逸らす術も身についてきた。忌引中、折しもテレビでは東日本大震災から5年目として、予告もなく突然家族を失った人々のインタビューが流れていた。そう、この悲しみは我だけが味わっているものではない。大概の人は誰もが親との死別の時を経験するのだ。昨日から職場に戻ったが、良くも悪くも母の事を考えている暇もない感じになる。日常に戻っていく。少しずつ、少しずつ。

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コメント

しばらく更新がなかったので心配していました。

父を亡くした13年前を思い出します。
ホスピスで母、兄と最後をみとり、用事があって戻った実家。
いつも父が座っていた場所をみてはじめて、涙が止めどなく流れたことを
昨日のように思い出します。
悲しいとか、そういうことでなく、もうそこに父は永遠にいないとわかってしまったとき、
分からないけれど涙があふれてきました。

おっしゃる通りだと思います。
受け入れていくしかないのだと思います、

また、ラーメン食いに行ってくださいね!
そしたら、記事書いてくださいね、
いつも楽しみにしています。

tantin様、温かい励ましのコメント、心に沁みました。こんな時でも食欲だけはあるので、当分近場に限りますが温かい一杯を啜りに行きたいなと思います。ありがとうございました!

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